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主の奉献 (聖母の御清め)の祝日  祝日 2月2日




 旧約時代、モーゼの律法によれば、男の子を産んだ婦人は誰でもその40日目に、神殿に参詣して感謝の犠牲が義務になっていた。その捧げる物としては子羊一匹と雛鳩一羽が普通で、もし貧乏人であれば鳩2羽でよい定めであった。もっとも産んだ男の子が初子である場合には、その他にも多少の献金をせねばならなかった。

 すべての掟をいつも厳守される聖母はこの定めをも忠実に果たされた。しかし実を言えばそれは聖マリアにとって是非守らねばならぬ義務では決してなかったのである。というのは母は母でも、聖母は世の母達とはまったくその選を異にし、大天使聖ガブリエルの御告げを受けて懐胎されてからベトレヘムでの御出産まで母であると同時にいささかの汚れもない清浄そのものの童貞女であらせられた上に、その御子は人間に掟を与え給うた天主の御子であったからである。

 しかし彼は人間を救う為にこの世に来たり給うた以上、何事にも人ののっとるべき模範を示す思し召しであった。されば常に天主の御旨をわがこころとされた聖母は、進んで神殿に赴かれたのであった。したがってこれは従順の業であり、また謙遜の業であるといえよう。

 聖母が謙遜であるという第一の訳は、天主御自身大天使聖ガブリエルをして「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします。御身は女のうちにて祝せらる」と賛美されられたほどの尊い御身でありながら、この世の母達の為に与えられた掟を守られたことである。更に聖マリアの謙遜の訳は、御子が万物の創造主であるにもかかわらず、貧者の犠牲である鳩2羽を献げられた事である。
 もちろん御子は初子であったから、前に述べた通り若干の金をも神殿に納めねばならなかった。すなわち共に参詣された養父にして保護者なる聖ヨゼフは、日頃の労働に御自分の血と汗とを搾って得た金で、規定の額を支払われたのである。御子が神殿の主御自身であるのに、これ又何という謙遜であろう!その従順と謙遜とは直ちに賞賛を受けた。即ち聖母御潔めの式の間に、シメオンという老人が神殿に来たがこの人は約束された救い主の降臨を久しく待ちわび、毎日のようにこの神殿を訪れては一心にそれを天主に祈願していたもので、天主も彼の熱心には感じられたのであろう、ある時救い主を見ぬ内には死なぬという啓示を彼にお与えになったのである。それでシメオンは嬉しくも心強く思っていたが、今、聖霊に促されて神殿に来て、聖母に抱かれた御子を見るやいなや、たちまち主の御照らしを受けて、その望んでいた救い主である事を悟り、聖なる喜びに満たされてその幼子をその腕に抱き声高く叫んだ。
 「ああ主よ、今こそこの賤しい僕は、御言葉通り安心してこの世を去ることが出来ます。何故と言えば私は主が万民の前に備え給うた救い主、異邦人を照らすべき光、イスラエルの民の光栄なる御方を拝む事が出来たからでございます」
 これは到底人間の語り得る言葉ではない。全く聖霊がシメオンの口を借りて語られたものに相違ない。それほどこの言葉は荘厳を極めている。我々は旧約の成就するのを見た。主は誠に万民の光である。童貞聖マリアはシメオンの言葉に耳にされたとき、あふれる聖い喜びを感じれれた事であろう。御自分はそういう尊い御子の御母であるからである。また聖ヨゼフとてその思いは同じであったに違いない。自分の労が報いられ、自分と聖母との謙遜や清貧がことに公に賞賛されたにも等しかったからである。自分等は貧しく賤しい身分である。それにもかかわらず世の救い主を託され、この神殿で聖い御子と光栄を共にすることが出来たのである。何という喜びであろう!
 しかしこの喜びのさなかにありながら、聖母は悲しい言葉をも耳にされた。すなわちシメオンはマリアの方を振り返りつつ「この聖子は多くの人の堕落と復活の原因となり、かつ反抗を受ける的になられるでありましょう。また貴方の魂も剣で刺し貫かれその時多くの人々の思いが明らかになるでありましょう」と語ったのである。そう言った時のシメオンは、さながら預言者のようであった。聖母やヨゼフがその不思議な言葉について思い廻らしておられると、はからずもそこに来合わせたのは84歳になる一人の寡婦であった。彼女は名をアンナといい、多年神殿を離れず祈りや断食をして天主に仕えていた者であるが、同じく聖母に抱かれた聖子を見ると主を讃美し、自分同様救いの時を待ちわびている人々に、その聖い幼子のことを語り伝えた。

 律法に定められた事をことごとくなし終えた後、マリアとヨゼフは家路に就かれた。しかしマリアは聖書の記事によれば、これらの言葉を一切胸におさめられておられたという。実際聖母は幾たびそれについて考え廻らされたか解らない。それは喜ばしい言葉でもあり、同時に悲しい言葉でもあった。

 主の奉献の祝日はキリスト御降誕の大祝日から40日目に行われる。また老シメオンは御子を「光」と呼んだので、この日の御ミサの前にろうそくの祝別式がある。カトリックの国ではこの祝別されたろうそくをしまっておいて、臨終のとき灯をともす習慣がある。そのろうそくを祝別するときの聖会の祈りは、死に臨める人々の為に天主の御聖寵を請い願い、そのろうそくが死の床にある者の天主への信頼を喚起し、彼が聖母の代願によってやがて永遠の光を仰ぐに至らん事を望むのである。


教訓

 聖母の御謙遜には全く感嘆せずにはいられない。私達もいかに人々の賛辞を浴び、あるいは金持ちになったとしても、聖マリアのように決して心傲らず、常に光栄を天主に帰し、神の御言葉を肝に銘じてしばしばそれを黙想しよう。